最新更新日:2017/10/19
本日:count up3
昨日:61
総数:90200

大瀬満喫3

大瀬の眺望は富士山を脇に眺め、正面が駿河湾というロケーションです。まずはゴミ拾いです。昨年よりたくさんのゴミを回収できました。我がもの顔に使うだけ使い、ゴミは散らかし放題というご時世だからこそ、学校の教育活動にはゴミ拾いが大事になります。明日の日本をしょって立つ子どもたちですから。
画像1 画像1
画像2 画像2
画像3 画像3

大瀬満喫2

客船「ちどり」のデッキから夏にはめずらしい富士山を駿河湾越しにながめることができました。大瀬に到着すると時間が早いこともあり、海岸はまるでプライベートビーチのようでした。
画像1 画像1
画像2 画像2
画像3 画像3

大瀬満喫1

8月31日(火)、今年で3年目になる「大瀬満喫」を行いました。平沢漁港に「ちどり」に来てもらい、全校児童79名と教職が乗船です。今年は児童数が減少したため、ちどりの一階に全員座れました。人員点呼の後、2階への上がり、自然の風を体に受け、一路大瀬に向かいました。
画像1 画像1
画像2 画像2
画像3 画像3

第2学期・始業式

画像1 画像1 画像2 画像2
8月30日(月)第2学期の始業式を行いました。学校の再開です。代表児童のメッセージのうち、6年生は残された7ヶ月を有意義に過ごす熱意を感じました。夏休みが明け、大きく成長したあとを感じました。

校長のメッセージはひょっこりひょうたん島に関わる夏休みに行われた西浦ゼミナールでの西浦小の子どものよさを扱いました。詳しくは「磯の香9月号」を読んで下さい。

磯の香・9月号をアップ

学校だより「磯の香9月号」を8月30日に配布しました。
地域へは8月31日の定例会で配布し、以降回覧していただけます。
本ホームページにもアップしましたので閲覧してみてください。写真データが鮮明です。

“一隅”35

− 俵万智が描く小学校の先生 −
サラダ記念日で有名な歌人・俵万智にこの4月(平成22年度)に小学校1年生になる息子さんがいるのだそうです(「総合教育技術」2010,3月号,第64巻第15号)。インタビューに答えて俵は次のように小学校の先生に期待する具体像をイメージしています。

「小学校の先生には、ある種の厳しさがあってもいいと思います。最近は優しくてお友だち的な先生が多い気がするんですけど、ピリッとした、いい意味での厳しさをもっている先生に出会えたら幸せだなと思います。

子どもを叱るのって難しいですよね。私も、ほめることはできるけれど、果たして上手に叱れているだろうかって思うことがよくあります。だから、虫のいい話なんですけど、子どもからはちょっと距離のある他人で、でも深く関わる大人として、先生には凜とした信頼できる厳しさをもっていてほしい。子どももきっと、親とかおじいちゃんおばあちゃんに叱られるのとは違う意味で、背筋がピンとすると思う。」
(平成22年3月16日)


以上、俵万智さんの話題をもって「一隅」の連載を終了します。夏休みの間おつきあいいただき感謝申し上げます。平成22年度の第2学期が明日から始まります。「西浦大好き、もっと好き!」を合い言葉に西浦小の子が健やかに成長できるよう尽力するつもりです。これからも応援の程宜しくお願い申し上げます。(平成22年8月29日)

“一隅”34

− あそびの世界へ −
福山雅治は時の人。NHK大河ドラマ「龍馬伝」は高い視聴率を維持しています。 この人気は龍馬の生き方もさることながら、福山雅治の魅力に負うところも大だと感じます。

朝日新聞に福山雅治へインタビューした記事が掲載されています(2010,3,15)。
福山は言います。「答えをみつけてから動くんじゃなくて、答えに向かうために旅をするとか人に会うとか、とにかくやってみる」龍馬の生き方は福山の人生に重なるのだと。そういえば、福山は俳優、歌手として絶頂期に一旦芸能界から退き、休憩した後、カメラに夢中になりました。確かに答えをみつける旅をしています。

福山は喝破します。「どんな身分であっても、おもしろいとか、おもしろくないかでつきあう」価値が尊いと。社会的に縛られない融通無碍の生き方への憧憬は、時代を超えて求められる思想です。別言すれば「あそび」と表現していいのではないでしょうか。

このあそびの境地を体現した偉人の一人に漢字の原義を究明した泰斗、白川静がいます。産経新聞の文化欄、「日本人とこころ」に白川静が取り上げられています(2010,3,14)。記事の中には、白川の次のような言葉が紹介されています。

「私はそういうなかで遊んでいたように思います。好きなことを、好きなように楽しんできたのです。どのような苦しみも、時は楽しみに変えてくれる魔術をもっている」
白川のいう「そういう」とは、白川の門下生、高島敏夫の解説によると、白川が行った「甲骨文や金文を丹念に書き写し、文字ごとに使用例を抜き出して、用例索引として整理していた。そうすると次第に、特定の文字が、どういう場所でどういう風に使われているのかがわかってくる。」という「砂を噛むような地味な作業」をしたことを指しています。

地道な作業をすれば「体が覚える」、「頭の中に辞書ができる」と、白川が弟子の高島に言ったそうです。

白川静の生き様は一意専心といわれる一つことを貫く生き方です。先の龍馬や福山の生き方と相反するように見えますが、どうして実は表裏一体に繋がっています。追究する心の向きは「執心」という言葉で表現できます。龍馬、福山、白石と三者とも執心をたぎらせた生き方として軸が一です。

私に言わせればこうした生き方こそが「あそび」です。期せずして白石がいう「そういうなかで遊んでいた」と言葉化した世界です。私たちもそして子供たちも「あそび」の世界で生きようではありませんか。
もっとも、子供の場合は正真正銘の普段通りの「遊び」でいいのです。そのうち「あそび」に繋がりますから。

(平成22年3月16日)

“一隅”33

− 生きる力って? −
佐藤芳之、新聞記事で初めて知りました(朝日新聞、GLOBE34,2010,2,22)
マカダミアナッツを世界の市場に広げた第一人者だと紹介されています。
1974年、アフリカのケニアで現地の7人と立ち上げた会社、KNCは今、年商36億円、従業員も3500人を超えるそうです。昨年、36年間をかけて育てた会社の株を幹部社員に譲渡、経営もケニア人に委ねたそうです。「ここに来たのは、彼らが会社を経営できるよう、手助けするためだ。もう十分やっていける。」とする考え方によるのだとか。

「アフリカの人々を『安い労働力』としてではなく、この地に生きる一人ひとりの人間と見る哲学」が佐藤芳之の生き方、社長としての行動基盤だといいます。利益だけを追求せず、現地の人の生き様に係わるスタイル、例えば毎月25日の給料支払いの約束(遅刻、無断欠勤が激減)などを実施したのです。

教育の営みも佐藤芳之の経営と一脈通じます。
子ども一人一人が自活できるように仕向けることが「教育」でしょう。

佐藤芳之は黒沢明の「七人の侍」に描かれた7人の武士にあこがれるともいいます。戦国時代野武士の襲撃におびえる村人を雇われた7人の浪人が守り抜く活劇です。「ひとたび解決すれば静かに村から立ち去る」格好いい生き方がモデルだともいいます。

教師は立ち去らなくとも期限の制約があります。大抵1年です。特に小規模校の担任は1年だけです。立ち去るとき、子どもの自立、自活に益したかどうか、むろん1年は短すぎです。本来は義務教育9年間は必要ですが。少なくとも係わった1年間でどれだけ一人一人の成長に係われたかが大事です。

平成21年度が終わろうとしています。一人一人の学級の子たちに思いを馳せてみてください。その成長にどう係わったのかは、ひたすらその先生の存在が大事です。教師塾を構想する所以でもあります。

佐藤芳之曰く、自身の人生を振り返り、人間の生きる力は第1に「忍耐力」、第2に「体力」、第3に「運」だと回想しています。
私たちの生き様を振り返るとき、どうでしょうか、生きる力を三つあげよと問われたら。運は大切です。引き寄せられますよ。必ず。見てくれていますから。

(平成22年3月15日)

“一隅”32

− 本当に大切なもの −
平野啓子は沼津市出身の元NHKキャスターですので知っている方が多いはずです。朝日新聞静岡版に「インタビューしずおか」という連載記事があります。
平成22年3月11日は平野さんが登場していました。語り部として活躍される平野さんの話から授業の成り立ちと語りが非常に近いものであることがわかります。竹取物語などの文芸作品を暗唱し、舞台で語る活動を25年もされています。その語りの実際が授業に酷似しているのです。

「目線をお客様に投げかけながら語るのでアイコンタクトが自然と生まれ、客席から返ってくる、何か目に見えないものが感じられる」といいます。

「波動」だと平野さんは言います。

「それを感じながら次の言葉を語っていきます。ほんのちょっとずつ間が変わり、その場ならではの伝え方になっている」とも言います。

まさに授業です。教師が発する言葉を子どもが受け取り、やり返す時のことです。波動を感じながら授業をすれば、自ずと教師はその問いかけを変えたり、間合いを作ったり、待ちの時間を設けたりと波動が収斂される方向を探るのです。こうした作業、授業は分析的に捉えることも可能ではありますが、何回も鍛錬して習得する職人的技の一つです。波動は教室の「雰囲気」という表現で教育界では喧伝されています。

先の平野さんはインタビューに答えて言っています。

「何かを本音で語り合ったり、大事なことを伝えたりする時はやはり、ちゃんと向き合って、肉声で言葉を交わし合うことが大切」だと。「同じ空気を感じ」るから「信頼関係」がつくられるとも言っています。

どうでしょう。授業にうんと近いものを感じませんか。

(平成22年3月15日)

“一隅”31

− 挨拶 考 −
確かに数字として挨拶ができない西浦小学校児童の実態はあぶり出されています。
ここ2年間の学校評価として実施している保護者、児童アンケート結果や長井崎中学校3校連絡会の席上でもこのことは話題に上がりました。
しかしです。平成22年3月2日に実施した学校関係者評価委員会における「挨拶」に係わる西浦地域の皆さんの見識には感動すら覚えました。
当日の委員のみなさんの考えを要約すると次のようになりますか。
「仕方ないよ。知っている人には声をかけるが、知らない人にはね。そう、西浦の子は恥ずかしがり屋なんだよ。長井崎中に行くようになれば立派に挨拶できるようになるよ。今までの子もそうだったのだから、心配はなしだよ。」

挨拶の励行と徹底は教育界においては自明のことであるので、何とか学校の責任においても挨拶ができる子を育成したいと、誰もが切望します。
教育界の中で挨拶至上主義を標榜しない方として浜松市教育長の高木伸三氏をあげることができます。高木教育長は、今から一年半ほど前の静岡新聞夕刊「窓辺」欄(H19,10,18)に「顔見知り運動」の必要性を提唱する随筆を書かれました。挨拶は基本的に顔見知りの関係性の中で取り交わされる儀礼であると、認識することが重要です。高木は「子どもが小さいときから、親はそれぞれの地域の行事に子どもを参加させ、地域の大人とともに活動する場面を多くしていくことによって人間関係を広めさせていく」ことに価値を置き、顔見知りになることを勧めています。
先の西浦小学校関係者委員の考え方と一脈通じるところがあります。

大丈夫、3年間続けた全国学力学習状況調査でも西浦小の6年生は「近所の人に会ったときは、あいさつをしている」し、何より群を抜いて「西浦地域の行事に参加している」子どもたちなのです。地域の人たちとは旧知の仲、顔見知りなのです。

児童精神科医の古荘純一は著書『日本の子どもの自尊感情はなぜ低いのか』(光文社新書、2009)の冒頭に、学校での挨拶を引き合いに出して次のように述べています。
「今の子は小学校低学年でも、疲弊しています。表向きは元気いっぱいに見えるかもしれませんが、疲弊しています。とくに、学校の先生の中でも、若い先生はそれに気づくかもしれませんが、管理職の先生になるとそれがわからなくて、「子どもは元気いっぱいだから」などと思っていますし、そう口にもしています。たとえば朝、学校の校門の前で、登校してくるみんなに挨拶をすることが最近はさかんに行われていますが、疲れている子どもに元気いっぱい挨拶をされても…、と私などは思ってしまいます。正直言って、あれはやめてほしいとさえ思ってしまいます。」

私も週に3回、子どもたちに挨拶していますが…。

(平成22年3月8日)

“一隅”30

− 軸 −
静岡県教育委員会発行「Eジャーナルしずおか」平成22年1月26日号のコラム欄「ぷりずむ」に、イラスト作家・赤池キョウコさんの「力強いオーラを求め、生き様を見直す時代」なる一文が掲載されていました。
「味の抜けた優しい言葉で『モノわかりのいい大人』を演じている」現代の大人に苦言を呈し、今時の子どもは実は「力強さ」に飢えているのではないかと説を唱えています。

赤池がいう「皆、メンター(良き助言者、指導者)を潜在的に求めている」と、私も思います。特に、指導者をです。

指導者は導くという漢字を使います。誰をどこに導くのでしょうか。誰は明らかです。導かれたい御仁です。学ぶ人と換言できます。

問題なのは導く先です。どこへ?ここが難しいのです。だから先人が導いてくれた地平を学びます。

火曜の夜は週一回の習字の稽古日です。昨夜、先生とお話させていただきました。稽古日までに自学で1枚ずつの楷書、行書、細字を仕上げるのですが、「稽古の時に先生に指摘されるまで自分ではどこがポイントなのかわからない、先生に指摘されると、なるほど書いた文字が変化するのですが。」

先生は、「私もそうです。」とおっしゃいました。先生にも先生がいるというのです。平形先生(静岡大学教授)だといいます。そういえばいつも先生の口から「平形先生は…。」との発言が多くあります。書の世界は臨書に値する中国の文字、漢字が確定されています。日本のかなも平安時代に書かれた文字が定式となっています。誘いはその文字の形、心に近づくことです。そこを基本とします。桃栗三年、私も何とか三年は学び続けようと自分で決めています。

指導の力強さは、導く地平が見えていることが要です。しかし、日本における教科教育は歴史が浅いため、見える地平がまだ定まっていない可能性が高いと言えます。国語科も教科として成立したのは1900年です。今から百十年しか経っていないため、国語科の指導方法は百花繚乱の例えで話題になるくらい定式はありません。

その分、教師に学ぶ必要があるといえます。ものがわかること、それは子どもの世界ではなく、大人のしかも教える立場にある私たち教師にこそ求められる基本的な立ち位置です。学ぶ教師が求められます。そうすれば、よい意味で「強い指導」が可能になります。

赤池キョウコは、一方で上から目線の説教はダメだと現代の日本の人間像に合わせた教育を推奨します。上から目線での説教を戒め、真似るべき値打ちが大人側にあれば自ずと子どもは真似るからこそ人生に「軸」をもった生き方を示せと提言してくれています。軸のぶれは危険です。軸の回転力がないと倒れてしまいます。教師が学び続ける必然を諭してくれています。

(平成22年3月3日)

“一隅”29

− いい授業 −
平成22年2月20日、三島市民生涯学習センターで開催された静岡県総合教育センター主催の公開講座「研究報告」の講演会のみ参加し、奈須正裕(上智大学教授)の「豊かな学力の確かな定着」を拝聴しました。
授業に対する熱い思いを感ずる学者でした。

私は10年ほど前、仙台市で2学期制を先行的に試行していた小学校を視察したことがあります。偶然、その学校は「総合的な学習の時間」の市の指定研究をしており、偶然にもその視察日が研究発表会の日でした。そして、指定研究の講師として招聘されていたのが奈須正裕だったのです。
昨年、9月30日に沼津原小が講師として奈須正裕を呼び、話しを聴く機会があると知り、研修主任Y先生に話しを聞きに行っていただきました。私の期待を裏切る教育的内容の濃い話だったとY先生から報告を受け、校内研修の資料として提出してもらいました。

さて、今回の奈須正裕の話から先生方に伝えたい点をいくつか紹介します。

,いぜ業とは?
・授業者にも、子供たちにも、参観者にも、しみじみとしたものが残る授業(重松鷹泰)

・子どもにとって意味ある「活動」を通して、教師から見ても価値ある「内容」を実現する(授業)

※あれかこれかになっていないか?活動(子どもの都合)と内容(教師の都合)の折り合いをつけることを考えたい

教科の本質(内容)と子どものワクワク(活動)に折り合いをつける。
○感動する(体が動き出す)→発見、驚き、もっとやりたい、家でも続きをしたい、
人に伝えたい・しゃべりたい

・授業は美しい。イメージとして美的なもの、齋藤喜博は授業とは芸術的なものだといっている。

・脳みそから汗を出す授業を!放課後になったら思いっきり体を動かして遊ぶようなら授業はうまくいっていない。

・授業がうまくいくと子どもは変わる。授業がいいと子どもは落ち着く。

校内研究とは?(校内研修)
授業を生業とする限り、人知れず授業に関して研究することは当たり前。研究は特別なことではない。冊子を作っても読んでない。そんな冊子を作ることが研究ではない。

自分で授業を振り返るために残す授業研究物には価値がある。自分のため、明日の子供たちのためにもっといい授業をしたいと考え、まとめることには価値がある。

授業時数の問題
フィンランドをはじめ学力が高いといわれる国の授業時数は少ない。多くすれば学力があがるなどあり得ない。授業の質を高めることが大事。1時間で伸びる授業をめざせ!ポーンと跳び上がる授業、教育的瞬間をめざせ!単位授業時間の質を高め、濃くすること。


い瓩兇攻技嫣に迫るために
学期に1本の単元でいいから子どもの活動と教科の内容が折り合う授業を実践すること、子どもはどの子も成長したがっている。
授業は難しい。すべることもある。エレガントにすべるようになろう。高みを求めて学び続ける教師に!
指導要領は批判的に吟味すること。なぜ、国語科授業で音読をさせる活動をさせるのか?先生が言うから授業として活動する子どもの情況から、活動が子どもに入り込み、主体的に動くように仕向ける授業を!

(平成22年2月23日)


“一隅”28

−定年シンドローム−

毎月「日本教育」という雑誌が送られてきます。
平成21年12月号の「私の提言」に掲載されていた大宮知信氏の「定年前に備えよ、定年後の落とし穴」と題された文章に出会いました。私も後5年で定年ですので興味津々、読んでみました。
大宮は言います。「定年後の人生をハッピーなものにできるかどうかは、経済的な余裕より、むしろやりたいものがあるかどうかが大きく左右する。仕事にせよ趣味にせよ、やりたいことが明確にあって意欲的に取り組んでいる人は、定年後も、イキイキとリタイアメントライフをエンジョイしている。」と。

さらに大宮は続けます。「うまくいっている人は見栄や世間体から自由で、研究心旺盛。現役時代の肩書きにとらわれず、好きなことを好きなようにやっている。逆に雑誌やテレビなどのメディアに登場する人たちの成功モデルを真似るだけで自分の頭で考えようとしない指示待ち族の人は、定年後の趣味というパターン化された、いま流行の『麦うち男』になっていまう。」

なるほど。この話を興味深く読んだ時、平成22年1月30日の朝日新聞「フロントランナー」に取り上げられていた「上原ひろみ」(浜松市出身・ジャズピアニスト)の生き様と照らしたくなりました。

ものすごいエネルギーで演奏する上原は演奏中にピアノの弦を切ってしまうこともあるそうです。高校生の時、浜松に公演のため来ていたチック・コリア(私も大好きなピアニストです、大学の時「リターン・ツー・フォーエバー」のレコードアルバムをよく聴きました)に強引に面会し、即興曲をチック・コリアの前で弾いて認められ、プロになるよう勧められたにもかかわらず、20歳で渡米しバークリー音楽院を首席で卒業する直前、現地のレコード会社と契約したのだそうです。

24歳で出したデビューアルバム「アナザー・マインド」は日本に逆輸入され、20万枚を売るヒットを記録したとか。新聞には上原ひろみの生き方を象徴しているエピソードが紹介されています。
ピアノを弾くことが好きな上原は「プライベートの旅先でピアノがない時間が続くと元気がなくなる。耐えられず、民家の戸をノックして『ピアノがあったら弾かせて』と、頼んで回ったことがある」というのです。
「好きこそ物の上手」
とは有名な諺。

夢中になれるものがあるかどうか、このことは定年の問題とは関係なく、人の生き方としてとても大事なことだと思います。上原ひとみ程でなくとも、一途に上達を目指してやり続ける経験、生き方が人を育てると源泉であると、私は考えます。

数寄(すき)ものの研究は古来より多く取り上げられています。鴨長明は『方丈記』が有名ですが、私は彼の『発心集』に注視します。鎌倉時代初期の数寄ものを集めた短編集です。一途に笛を吹くことに執心した者など、数々の数寄者が紹介されています。室町時代には心敬というお坊さんが「執心」という心の向きの重要性について書き残しています。

いずれ、古来より一途に自分の心を振るわせ、集めようとした人々は存在しましたし、一部ではありますが評価されていたのです。そして、現在においても「数寄心、執心」は、評価されるべき大事な心の向きだと私は思っています。

むろん、その向きによっては他人に迷惑をかけたり、社会に悪影響を及ぼしたりもします。だから、単純に自分の心の向きだけを貫こうとするだけではいけません。向きを錬磨する必要があるのです。ここが勉強のしどころとなります。ただ、笛が好きだけでは、自己満足で終わりです。

名人と称される人々はおしなべてこの執心を抱き、一途に力を注いだ人です。彼らはレベルが上がると共通の言葉を出すようになります。

「生かされている」と。

上原ひろみは、新聞のインタビュー、「スランプや限界を感じることはないのですか。」に答え、「自分のレベルでは、まだまだだと思っているので、そんなこと言ったら笑われてしまいますよ。」と。敬服します。

記者の最後の質問、「目標が高いのですね。」には、「山は、そびえ立っていますよ。ピアノを、もっと自由自在に操り、ピアノを通してまだ見ていないもの、見えそうなものを、常につかんでいきたい。たぶん登山家と一緒です。その山を登り切れば、いい景色が見られる。それを見たら見たで、もっとよい景色が見たくなるのです。」と答えています。
上原ひとみ等の生き方は授業を核とする教師の在り方や生きたかにもそのまま置き換えられそうです。

「〜したい」をキーワードに算数教育に邁進するのは正木孝昌氏です。静岡新聞(H22.2.7)に正木先生の「生きる学力、どう育てる」と題された記事が取り上げられています。詳細は2月23日に予定される西浦小の研修会の席で紹介するつもりですが、「たい」が学びの原点であり、生き方の根底をなすものであることを確認することが何より要だと思います。

(平成22年2月15日)

“一隅”27

− 一喝する教育 −
田邊福夫「一喝する教育」(「月刊 国語教育研究」454 H22.2月号)は一読をお勧めします。
論者の経歴は、元島根県警察学校校長、田邊福夫氏。日本国語教育学会が発刊する国語専門の月刊誌にどうして田邊の論を掲載したのか興味がそそられます。

内容は大変濃く素晴らしいものです。
田邊福夫の「一喝する教育」を読み、今から約20年前1992年に出版された『現代のエスプリ−現代の教育に欠けるもの−』至文堂の中に採録されていた河合隼雄の「成長に必要な抑制者(インヒビター)」を思い出しました。副題は「規律と感性をいかに回復するか」です。

河合隼雄は、母親や教師に対しても暴力を振るう家庭内暴力や校内暴力が社会問題化する時代状況に対して、あまりにも「管理されたよい子」として育てられ悪に対する耐性が低いからではないと案じ、「個体の成長に必要な抑制者(インヒビター)の存在」の重要性を論じます。人間の思春期は巨大な嵐が生じていて、嵐の渦中は未分化で巨大なエネルギーだから、そのエネルギーを個人が自分のものとして使用できるようにするためには、「巨大なインヒビターが必要」だと言います。

「青少年に対して、親や教師が不退転の壁として存在するとき、彼らの巨大なエネルギーがそれにぶつかり、分化し統合されて、青少年の成長が生じるのである。この抑制者を失うとき、エネルギーは単に爆発するだけで、自分のものとはならない。それは境界をこえて拡散してしまうだけ」だと指摘します。

続けて河合は指摘します。「個性を自由に伸ばしてゆくためには、強力な抑制者が必要で」、「子どもを理解するとか、自由を尊重するという美名に隠れ、その本質を理解することなく、自ら抑制者として子どもの前に立ちはだかる義務を放棄した大人が、随分と多かったのではなかろうか。」と。

時代が今とは違います。平成4年がこの本の出版年ですから。教育界が舵を大きく「個が生きる教育」にきり始めた時代です。私もこの時代、香貫小に在籍し、小学校国語科の指導研究員として市内のみなさんに公開授業をした頃です。4年生の担任として「月の輪ぐま」の授業を公開し、事後の全体研修会で「こんな授業を見に来たんじゃない。個が生きる授業を見に来たんだ。」と一喝された頃です。

先の河合隼雄はインヒビターについて注意を促します。「ぶつかってくるものに対して、退くことなく立ちはだかるが、自ら動き出して相手をからめとることはしない。」と。「ただ、境界を無分別にこえようとする者を拒否するだけ」だと戒めるのです。「大人が壁として、子どもたちの力を正面から受けてこそ、真に子どもとは何か、自由とは何かを理解できるであろう」から「大人は、自らも生きる者として、人格を賭けてインヒビターにならねばならない」と訴えます。

河合隼雄はその後、神戸市で起きた中学生が犯した衝撃的な殺人事件「サカキバラ事件」を契機に少年の教育の立て直しのために、「とらいやるウィーク」を創設しました。キャリア教育の嚆矢です。1週間、実社会に中学2年生を実習させる教育です。大きな成果をあげたのは有名です。

河合隼雄が考えたインヒビターの具体策は実社会に生きて働いている先輩たち、人生を生きている先輩たちと仕事を通じて直に交わることだったと私は理解しています。

西浦小の教育目標を「西浦大好き、もっと好き!」とし、実社会との係わりを体験を通して学んでほしいとした所以とも一脈通じているのです。

(平成22年2月10日)

“一隅”26

−良師良問−
「あと3ヶ月で2年生だね。4月になると2年生になります。ということは、この西浦小に…。」この…。が大事です。
1年生の子は次から次へ思いついたことを口に出します。「新一年生。」「4人だけどね。」「寿光からは来ない。」それでも子供たちの発する情報をすぐさま拾い上げることなく、待ちます。しゃべらせて絶妙なタイミングで子どもに切り出します。

「新1年生と遊ぶ会をします。保育所のO園長先生と電話しましたが、中身は決めていません。」会の中身を検討する大作戦の打ち立ては、板書にて示します。

「保育園のライオン組の時、小学校に来て、ドキドキ、ワクワクした会の中身を先生に教えて。」ここからは、キーワードを子どもに落とすために意識して「ドキドキ、ワクワク」を多用します。

「ドキドキ、ワクワクさせるためにどうするか考えて、作戦が頭の中にある子は椅子を持って、前に集まれ!」

教師の指示、発問は子どもに落ちてはじめて価値が生まれます。よく通る発問だったのは、日頃の指導の賜です。子どもの頭の中に会の作戦が描かれなければ、次の行動を起こせません。単に考えが一人一人の子どもの中に存在するかどうかではない、よいプレッシャーを与えます。

すかさず、移動できない子たちの個別指導にあたります。意味ある個別指導は、プレッシャーを与えた後だから効果が期待できます。助けてほしい状況を教師が作った訳ですから、自ずから子どもは教師のかかわりに感謝します。「よかった、来てくれて。」と。教師が聞いてくれる安心とアドバイスにより車座の一員として加わるのに時間はかかりません。

車座も妙です。互いに顔を向かい合わせる座り方ができる人数がよく計算されています。場の移動と場作り、どちらも普段とは違い、すこしだけハレの雰囲気をもった意見交換の場であることを子供たちは日頃の指導を通して、了解しています。とりたてて話をコントロールせずとも子どもたちは次から次へよく発言し、話を発展させていきます。

「好き勝手にしゃべっていると。」一通りじゃばらせておいて、諫めます。子どもの思考を焦点化します。会の内容と役割分担はそれぞれの子の思いが交錯し、勝手が強い子と状況を認識できる子に分かれ、葛藤が生じます。

この葛藤こそが学びの根源です。
困ったことこそが、問題を解決するにはうってつけです。しかも、自分達でまいた種です。切実感があります。生活科や総合学習の利点です。課題が身近な問題から発生させられる必然をもっているからです。

野口芳宏は国語科を専門とする授業実践家で、退職後、大学で教鞭を執っている先生です。明治図書から発行されている『子どもは授業で鍛える』(明治図書、2005)は野口の多くの著書の一冊です。実践家として学ぶべき視点が多く示されています。
その中に、「教師中心・発問中心」と題された項があり、さらに視点が二つ示されています。

「1 教師中心・発問中心でよい」、「2 良師良問」です。

野口は「優れた問いは優れた教師が生み出す。」ことを「良師良問」と表現します。「自分の力を磨かないで他人の作った発問ばかり使っていちゃだめなんです。」「優れた問いを出せば、優れたことを考え始めます。くだらない問いを出せば、くだらないことしか考えません。授業の方向付けというものは問いで決まります。」と宣言されています。

全面的に賛同します。授業、教育の主役は教師です。子どもではありません。子どもは学校の主役なのです。

こうした視点からH先生の授業や指導案を見てみると、「昨年、自分がちが招待されたときの様子や気持ちを思い出すような言葉かけをする。」「12月に2年生からやきいも大会に招待されたときにもらったことなどを思い出させるように言葉かけする。」と指導案上で発問の予定がされています。その場にならねば具体的な発問を発することはできないが、コンセプトは明らかにしていく姿勢です。

アドリブというには過ぎるかもしれませんが、優れた芸人や音楽家はアドリブを多様します。客に合わせ、その場の雰囲気に合わせて表現を変えるのです。しかし、根本や方向性がぶれることはありません。こうした営みは授業に似ていると思います。

授業とはつとめて芸術に近いと思います。
特に舞台芸術や落語、漫才などのライブに近いと思います。当意即妙で観客の雰囲気をつかみ、切り返すことで客の心を離さないから、その世界に浸った喜びが「よかった」「感動した」となって残るのだと思われます。

○待つ、教師のかかわり具合を学ぶ
事後研修会(会議室)の席上、H先生は次の視点で自身の授業を振り返られました。
・価値付けること(教材、子どもの学びの事実)
・板書の意義(学びの側面を支援するツールとして)
・教師の立ち位置(学びを統合する役割)
教師として重要な視点を自分の課題として内在されていることに敬意を表します。古の教師たちも多く課題として挑戦し続けてきた教師の道です。先人に学び、子どもに学び、教材を咀嚼して教師の本道を歩んで行かれることを期待します。K先生が指摘されたように「待つ」ことができる教師は子どもを見ようとしている何よりの証しだと思います。

教師の基本ですが、難しいものです。「待つ」とは?かかわりとして「待つ」とはどういうことで、どんな意味があるのか?古の先人も悩み、追究しています。まずは書籍から学ぶべきかとも思います。
互いに教師道を精進しましょう。

(平成22年2月1日)

プール下体育器具庫奥の壁の補強

画像1 画像1 画像2 画像2 画像3 画像3
夏休みに入ってすぐの大雨の影響でプール下の体育器具庫の壁が破れ、土砂が流入してきました。危険なため夏休みに壁をコンクリートで補強する工事を進めています。
現在工期が伸び、10月までかかることになりました。コンクリート打ちは9月に入ってからです。
猛暑の今年こそプールで水泳の学習を2学期もしたいのですが、以上の理由から今年度のプール使用はできません。
来年を待ちましょう。

砂場復活

画像1 画像1 画像2 画像2 画像3 画像3
夏休みにグランドにある砂場をリニューアルしています。
囲いの木材を新しくし、新しい砂を補充します。
2学期、楽しみにしていてください。たくさん使ってください。

遊具補修

画像1 画像1 画像2 画像2 画像3 画像3
写真の遊具は子どもたちがよく使う遊具です。玉を揺らして遊ぶのですが支える上の部分のロープが摩耗し出したので夏休み中に新しいロープに取り替えていただけました。2学期から安心して使えます。

“一隅”25

−安心と自立−
平成21年12月22日、「きらの子座」公演のお礼に原東小をお邪魔しました。そこでの話題の中にみなさんにも是非聞いてほしい内容がありました。H先生が原東小時代に教えた子のいる母親の話です。今は高校生になる末娘と母親の関係についてです。

母とその子は小さな時からいつもべったりと肌をすりあわせる仲でした。

高校生になる娘はもう母親の体を密着させる愛情を嫌がります。当然です。しかしです。嫌がる素振りなのに、娘が自ら体をすり寄せてくることがあるというのです。むろん見た目には嫌がっているはずですが。

そんな時は決まって娘さんはメールを頻繁に交わしているといいます。友達との関係で何か「困っていること、悩んでいることがあるな。」と母親は了解します。了解はしますが、立ち入って問い詰めたりはしません。

この話を聞いた翌日、産経新聞に「『くっつくこと』心身の成長に不可欠」(H21.12.23)と題された記事を目にしました。東京大学大学院准教授、遠藤利彦に取材した記事です。

乳幼児期の発達とアタッチメント(愛着)の関係について「初めは身体的にくっつくことで子供は安心し、徐々に気持ちの上で安心感という感覚を得ていきます。そして、乳幼児期に信頼関係を築くことが、将来的にも大きな影響を及ぼします」と遠藤利彦は強調します。さらに、この関係は母子に限らず、身近な大人との一対一の関係作りにも当てはまると指摘します。「不安なとき、困ったときにはしっかりと抱きとめ、挑戦するとき、頑張るときには見守ってくれる、包容力のある人の存在が、赤ちゃんの心身の成長、発達のためにも不可欠」だと記事は続きます。先の高校生の娘と母親の関係についても当てはまるように思います。

このことは、学校も同様でしょう。ただし、安心させるために同情して哀れむのはかえって成長を阻害します。「大人がいつも先回りして『やってあげる』ことは、子供の発達には決してプラスにならない。」と遠藤利彦が警戒するように、可能な限り自立を促す関わりを私たちは模索すべきです。だから、きらの子座の母親のくっつきは評価されるのです。

「高校生にもなって」ではなく、悩む娘を肌で心配する母親の存在の大きさが娘を救うのです。そして、娘は社会で生きる術を自ら獲得していくのです。親が先回りして事を荒げないようにすれば、その時は収まりますが、子供は成長しません。私たちの大事な使命は、子供の成長、自立です。全うに生きる人間として成長するよう促すのが教育です。
むろん、簡単なようで…ですけれど。

(平成22年1月8日)

“一隅”24

−教師主導型授業再考−
以前、前任校の原東小に用事があり足を運びました。夜でしたので玄関先で教頭先生と話ししました。そこに、先頃結婚したばかりの若手教員が顔をのぞかしてくれました。教頭先生が私に報告してくれます。「○○先生は、いつもがんばっています。教師主導型授業の脱却がテ ーマです。」と。すぐに私は答えました。「そうするには徹底的に教師主導の授業をめざせばいいのだよ。」と。真意を掴むには時間をかければいいと思います。

が、それでも老婆心が頭をもたげます。昨日(平成21年度)行われた市一斉授業研修会(小・国語)でその若手教員を見かけましたので、グループの協議 会が解けた移動時間に少し話しました。「教師が 前面に出る授業」についてです。むろん、若手が想定している教師主導型と私が比喩的に諭したつもりの教師主導型とは言葉は同じでも内容が違うものであることは言うに及びません。

どうでしょうか。今朝、職員室から昨日の授業研修会での自主的な情報交換がされていました。どんな授業で、どんな質疑応答か。
私たち教師が本気で取り組み、研修すべきは教師の授業力です。付随するものとして教材があったり、子どもの姿があるわけですが、中核は教師そのものであるべきです。「西浦教師塾」を立ち上げているゆえんです。この前、回覧した県教委学校訪問をしている東部支援班の指導主事たちが発したコメントには、教師の指導力育成が遅々としている実態の嘆きが報告されていました。一朝一夕には指導力はつきません。

教師が教師としてどこに力点を置き、どんな教師をめざし、日々の授業でどう意識的に子どもの真実と対峙するかがすべてです。むろん、全ての教科、領域では無理ですので、特定の教科に絞ったり、特定の場面に絞ったりして研鑽します。その場合も、是非先達をあてにしてください。

教師塾の基本は教えを請う側にあります。教える側は盗んでもらうようさりげなく係わってください。若手はどん欲に欲してください。

本物の一人前になるには20年の歳月が必要かと感じます。欲し続けてです。40歳を過ぎないと見えない世界があるのです。欲し続ける人には見える世界でもあります。
授業は生き物です。子どもから学ぶとはよく聞く言い回しですが、本当に実感するには相当の努力が教師側に必要です。
互いに精進あれ!

(平成21年11月19日)
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31    
学校
4/6 着任式・始業式・入学式
沼津市立西浦小学校
〒410-0234
住所:静岡県沼津市西浦平沢255-2
TEL:055-942-2004
FAX:055-942-2131

☆ご感想・ご意見をお寄せください
nisiura-e@numazu-szo.ed.jp