学校日記

“一隅”№34

公開日
2010/08/29
更新日
2010/08/29

校長メッセージ

− あそびの世界へ −
福山雅治は時の人。NHK大河ドラマ「龍馬伝」は高い視聴率を維持しています。 この人気は龍馬の生き方もさることながら、福山雅治の魅力に負うところも大だと感じます。

朝日新聞に福山雅治へインタビューした記事が掲載されています(2010,3,15)。
福山は言います。「答えをみつけてから動くんじゃなくて、答えに向かうために旅をするとか人に会うとか、とにかくやってみる」龍馬の生き方は福山の人生に重なるのだと。そういえば、福山は俳優、歌手として絶頂期に一旦芸能界から退き、休憩した後、カメラに夢中になりました。確かに答えをみつける旅をしています。

福山は喝破します。「どんな身分であっても、おもしろいとか、おもしろくないかでつきあう」価値が尊いと。社会的に縛られない融通無碍の生き方への憧憬は、時代を超えて求められる思想です。別言すれば「あそび」と表現していいのではないでしょうか。

このあそびの境地を体現した偉人の一人に漢字の原義を究明した泰斗、白川静がいます。産経新聞の文化欄、「日本人とこころ」に白川静が取り上げられています(2010,3,14)。記事の中には、白川の次のような言葉が紹介されています。

「私はそういうなかで遊んでいたように思います。好きなことを、好きなように楽しんできたのです。どのような苦しみも、時は楽しみに変えてくれる魔術をもっている」
白川のいう「そういう」とは、白川の門下生、高島敏夫の解説によると、白川が行った「甲骨文や金文を丹念に書き写し、文字ごとに使用例を抜き出して、用例索引として整理していた。そうすると次第に、特定の文字が、どういう場所でどういう風に使われているのかがわかってくる。」という「砂を噛むような地味な作業」をしたことを指しています。

地道な作業をすれば「体が覚える」、「頭の中に辞書ができる」と、白川が弟子の高島に言ったそうです。

白川静の生き様は一意専心といわれる一つことを貫く生き方です。先の龍馬や福山の生き方と相反するように見えますが、どうして実は表裏一体に繋がっています。追究する心の向きは「執心」という言葉で表現できます。龍馬、福山、白石と三者とも執心をたぎらせた生き方として軸が一です。

私に言わせればこうした生き方こそが「あそび」です。期せずして白石がいう「そういうなかで遊んでいた」と言葉化した世界です。私たちもそして子供たちも「あそび」の世界で生きようではありませんか。
もっとも、子供の場合は正真正銘の普段通りの「遊び」でいいのです。そのうち「あそび」に繋がりますから。

(平成22年3月16日)