“一隅” H22. №6
- 公開日
- 2010/10/10
- 更新日
- 2010/10/10
校長メッセージ
− 教材研究考 −
6月1日(火)朝会にて佐野丹丘の揮毫石碑が本校に建立されていることを話しました。
その日の昼休み、1年生が石を見付けたと報告してくれました。最初に見付けたのは3年生だとも1年生は言っていました。
翌日、登校していきた6年生男子(久連組)が佐野丹丘石碑の裏に回り、建立年を確認していました。
私たちが今回の件で学ぶべき点、それは価値は学んでこそ明らかになることです。ただの石、変な字が書いてある石で終わるか、価値を認め、己が内にとどめ置くことができるかどうかです。
教師として学校という場で子どもに伝授するのは「価値」そのものです。
教師が学ぶべき地平はこの価値の確認にあります。
普段は見慣れ、当たり前になっていることやものの価値を見付けることです。それが教材研究だと考えます。
西浦小の子どもに「富士山ってきれいだね。」と聞いてみて下さい。きっとどの子も「…。」と答えるかな?
「教材研究」は授業を構想する土台です。されど、具体的に何をどうすれば教材研究ができた状態になり、授業を活性化させ、子どもに力を付与させることができるかは未だ体系化されていないと私には思えます。
日常の授業は教科書会社が出版している「指導書」を見て授業をすることが多いかも知れません。だから、綿密に教材と向き合う機会を年間で一度くらい作るために公開授業が校内研修として位置付けられてきたのかもしれません。
だからこそ、教師である私たちは教材研究とは何をどうすることかを今一度原点に立ち返って学び直す必要を痛感します。沼津の若手研修(2,3年目教員研修)が指導案作りを中心にして年1回の公開授業研修を義務づけ、6年目にはそれまでの授業実践をまとめて沼津市教育奨励賞として論文に仕上げる義務も「教材研究」する力を若いうちにつけてもらいたいとする願いが根底にあると私は理解しています。
青木幹勇は国語科における教材研究を次の四点に収斂させています(青木幹勇『生きている授業、死んだ授業』国土社、昭和58年)。
①教材を作品としてとりあげての、文章の研究、作者の研究。
②作品や作者につながりのある現地へいって、教材に関係のある現物や現事象を見る。
③教材価値、指導の内容、指導の展開などを考究する。
④考究した教材を授業につなぎ指導案まで書いてみる。
①の「文章の研究、作者の研究」は、何をどう研究するのでしょうか。
国語科の教材文は大きく分けて、物語文と説明文の二通りです。
「文書の研究」とは詳細な読解をめざします。では、何をすれば詳細な読解が可能になるのでしょうか。答えの一つは「視写、書き込み」です。特に視写が大切です。視写は昔から学びの具体的手段でした。
最近では女子プロゴルファー横峯さくらの伯父、横峯吉文が小学校入学前の子供たちに試みているヨコミネ式教育法として「視写」を取り入れていることが新聞広告に紹介されていました(朝日小学生新聞広告「朝小の記事 書き写して勉強」)。横峯吉文は「文章全体を書き写すことで、自分で理解する力や考える力が身につく」と宣伝しています。
昭和期、小説家を目指す人は必ずといっていいほど志賀直哉の『暗夜行路』を全文視写し、志賀直哉の文体を身に修めようとしたいう話を青木幹勇の『第三の書く』国土社、で知りました。
教材文を視写したら次に書き込みをします。重要語句を探し、線を引きます。重要語句を別の言葉で詳しく書き加えていきます。
例えば小4年の「ごんぎつね」の「こぎつね」に線を引き、「小さなきつね、親がいないのでろくに食べていないのか」と、子どものきつねと読まず、小さな身体のきつねと読解をしていくのです。むろん、新美南吉の叙述に従います。ごんが暮らす穴の位置、背景も読みます。その上で「小ぎつね」と読解し、上記の「書き込み」を入れていく教材研究をしていきます。何より教師が本文に「書き込み」をすることが重要です。
こうした教材研究が授業を開拓する素地となります。教材と向き合う教材研究こそが授業構想の基盤です。
今年の西浦小教師塾のテーマは、「学校の主役は子ども、授業の主役は教師」です。本質的な「たい」が表れる授業を目指します。そのために、教材研究をします。国語科だけを例に挙げましたが、他の教科や領域も基本的には同じはずです。
6月の朝会で紹介した宮崎県川南町立東小学校の口蹄疫をテーマにした「いのち」の授業を実践した嶋田雄一教諭は、「立入禁止」の看板を見ている子供たちに発問しました。
「この看板を見て、だれの顔が浮かびますか?」と。
得てして私たちは子どもたちに問いたくなります。
「どうして立入禁止の看板がたくさん立っているのですか?」
「なぜ、立入禁止の看板が立っているのでしょうか?」と。
国語科の文学教材を扱う発問に「なぜ、どうして」を使うことをいぶかります。むろん「どんな気持ちでしょう。」も然りです。
「誰の顔が浮かぶ」と問う発問が素晴らしいのは、見えない心を見るために視覚を通して目に浮かぶ「顔」に焦点を当て、子どもの心を揺さぶっているからです。「顔」を契機に次なる世界を見ることも可能です。
嶋田雄一先生の教材研究力を探りたくなります。
(平成22年6月3日)