学校日記

「啐啄同時」その1

公開日
2013/05/18
更新日
2013/05/18

校長のひとりごと

−「啐啄同時」に託す−
私は昭和63年と平成元年の2年間、兵庫教育大学にて故安部崇慶先生に師事できまた。
最初に先生の研究室のソファーに座った時のことを鮮明に思い出せます。同期の院生は3名。私たちは先生にとって第2期生。先輩の第1期生2名の研究テーマは「世阿弥」と「時の機」。安部先生が発せられた日本の芸道の話を耳にし、私はうろたえました。世阿弥(能)、利休(茶)、芭蕉(俳句)の名前くらいは知っていましたが。私が芸道の勉強を?と、いぶかりました。
先生からは、講義、ゼミ、修論指導、懇親、旅行を通じ、人生の骨格たる大事な礎の多くを教えて戴きました。
「啐啄(ソツタク)同時(ドウジ)」は先生から学んだ用語の中でも中核をなす概念です。
鶏の雛が卵から産まれ出ようとするとき、殻の中から卵の殻をつついて音をたてます。これを「啐」と言います。そのとき、すかさず親鳥が外から殻をついばんで破る音、これを「啄」と言います。この「啐」と「啄」が同時であってはじめて、殻が破れて雛が産まれます。その「時と機」の合致が雌雄を決するのです。命の誕生に深く関わります。「啐啄同時」に込められた意味です。
私が「啐啄同時」にこだわりたいのは、教育における教師と子どもの関係の真髄を言い当てているからです。
安部先生は著書で述べています。
「教師←→児童・生徒間の啐啄同時の態度や臨機応変の処置が、どれほど重要であり、どれほど効果のあるものかは容易に想像できることである。そして、これが『教育技術』であるならば、まさに『教育技術の最高の宝』と呼」べると(安部崇慶『芸道の教育』ナカニシ出版、1997、p132)。
実際には「啐啄同時」は「教育技術」とはなりにくい分、誰にでも簡単に付与される力ではないとも言えます。
教師として子どもを成長させるために必要な「今でしょう」を的確に示し、子どもと共に心配する具体的な手立てを講じられるようになるためには途方もない経験と勉励が必要です。
教育という営みに身を置く一人としてその時、その機会に考え、心配していることどもを披露していければと思い、「啐啄同時」を私の便りの名前としました。