学校日記

“一隅”№14

公開日
2010/08/14
更新日
2010/08/14

校長メッセージ

−筑波大学付属小・白石範孝先生をお迎えして−
平成21年2月27日、白石先生に来校していただき、国語科の授業を見せていただけたこと、事後の研修として国語教材研究の具体的方法を伝授していただけたこと、本当に勉強になりました。
一昨年(平成19年)、今沢小で白石先生が授業と講演をされた評判は聞いていたのですが、自分で実際に白石先生の授業を拝見したことがなかったので半信半疑でいたのです。
杞憂でした。本当に素晴らしい授業でした。
教師の役割は「教える」ことにあると思います。ただ、一方的に教え込むのではありません。教える中身の価値を教師が子どもに伝授し、受け取った子どもを最後には主体的に学ぶ学習者に変容させる営みこそが教育だと思います。
苅谷剛彦氏は教えることの重要性をいち早く世間に問うた学者です。『教えることの復権』を上梓した苅谷氏は大村はまに実際教えてもらった氏の奥さん、夏子さんと大村はまを対談させ、教育における本当の教えについて価値付けをしました。
「一方的な教え込みや詰め込みの教育から、子どもが自ら学ぼうとする意欲を大切にした教育への転換は必要なことのようにみえる。ただ、それがスローガンとしてもてはやされる陰で、子どもが学ぶ上での教師の役割が軽視されすぎていないか。単純な教え込みや詰め込みと区別されていかるべきはずの、子どもの学習をしっかりと指導する教師の役割がないがしろにされていないか。」(大村はま、苅谷剛彦・夏子『教えることの復権』ちくま新書、2003、p7.)
大村はまの教師としての価値に再び光りを当てた苅谷氏の動機を記したこの言葉は、平成21年度の西浦小の校内研修に直結していると考えます。大いに、授業研修をしましょう。
(平成21年3月3日)

−筑波大学付属小・白石範孝先生をお迎えして、その2−
白石先生の教材研究の質の深さには舌を巻きました。
先生の国語科における学びの原理原則として紹介していただいた「部首」については、『新潮日本語漢字辞典』を最近上梓した小駒勝美氏の『漢字は日本語である』新潮新書、2008、の中で簡潔に論述されています。以下に紹介します。
部首というのは本当にわかりにくい。たとえば相談の「相」という字の部首は何かと聞かれたら、「木の部(木へん)」と答える人が多いと思うのだが、実は「目の部(目へん)」なのだ。
もっと複雑な例を挙げると、「問、聞、悶、閣、閥、閲」の違いがある。六つの字とも「門」の中に字が入っているので、すべて「門がまえ」かと思いきや、これがそうではない。閣、閥、閲は「門の部(門がまえ)」で正解だが、問は「口の部」、聞は「耳の部」、悶は「心の部」に属するのである。
なぜこんな面倒くさいことになるのかというと、部首は基本的、意符の部分を取ることになっているからだ。意符とは、漢字の意味を表す部分。これに対して、音を表す部分を音符と呼ぶ。
問、聞、悶は、音読で「モン」と読む。ということは、音符が「門」で、意符がそれぞれ「口」「耳」「心」ということになり、それが部首になる。ところが、閣は「カク」、閥は「バツ」、閲は「エツ」と読むので、音符が「各」「伐」「兌」で、意符、つまり部首は「門」になるというわけだ。
攻撃の「攻」と牧場の「牧」も、右側が同じ字でありながら、この原則によって違う部首に分類されている。「攻」の音符は「エ」で意符は「攵」、「牧」の音符は「攵」で意符は「牛」。したがって、前者は「攵の部(ぼくにょう)」であり、後者は「牛の部」になるのである。

どうですか。
さらに小駒氏は、論を続けています。この「部首」を考えたのは紀元前100年ころの後漢時代の許(きょ)慎(しん)という人だと言います。その時に「意味を表す部分を部首にする」という原則で全ての漢字を分類したというのです。なんと今から約2100年前にできた原理だったのです。
真理ではなく、人が作った原則です。漢字を重要視する日本の教師として学ぶに値する内容です。白石先生に国語科の授業をする前提として教師が学ぶべき原理原則について教えていただけました。素晴らしい先生を講師として西浦小に招聘できたことに感謝です。
(平成21年3月4日)