学校日記

“一隅”№23

公開日
2010/08/21
更新日
2010/08/21

校長メッセージ

−Zさん−
平成21年11月9日、西浦小2年生として来校してくれたZさんは、30歳の中国人(ハルピンの北出身)です。故郷には両親と奥さん(平成22年2月に誕生が予定されているお子さんがお腹に)を残されての来日です。身分は日本の大手企業の社員(中国)、しかも課長です。なんと部下は4千余人もいるとか。会社は中国の南、広州にあるのだそうです。

Zさんの日本での研修期間は平成22年10月まで。それからは広州に家族ごと引っ越し、新たなる生活が始まるのだそうです。

Zさんは仕事の研修として日本に来ているので、一切中国語を話してはいけないことが契約だといいます。それにしても上手な日本語です。ほとんどの会話は通じます。逆に考えれば、私たちも命を賭けて他の国に行き、使命として言葉を使わざるを得ない情況なら、短期間で言葉を習得できるかもしれません。

なぜか、幕末から明治初期の官吏たちとZさんをダブらせてしまいました。

明治5年、岩倉具視全権大使一行を乗せたアメリカ号はサンフランシスコ港に入港しました。そこには津田梅子(満7歳)ら5人の女子留学生が乗船していました。明治15年に日本に戻るまで10年間、梅子はアメリカでひたすら英語を使った勉学に励んだのです。

梶田正巳は帰国後の梅子を「素質に優れた人であったから、日本に帰国して二、三年もたつと、日本語での会話にはそれほど不自由を感じなくなったであろう。しかし、自分の気持ちや感情にぴったりあった言葉、緻密な思索を託すことのできる言葉は、いつまでも英語であった。つまり、梅子にとって心の深層にふれる言葉は、終始英語であり、生涯にわたって日本語に置き換わることはなかった」といいます(梶田正巳『異文化に育つ日本の子ども』中公新書、1997)。

この本には他の女子留学生にも触れ、母語と外国語の習得の歴史的検証も研究の視野に入っています。外国語の習得時期などを考える時、重要な示唆を与えてくれます。

話がそれました。
Zさんに私たちはもう出会うことのない明治期の日本人たちをダブらせることができます。Zさんの目や心意気に、過去に日本国を起こした人たちを重ねました。

(平成21年11月10日)