“一隅”№30
- 公開日
- 2010/08/27
- 更新日
- 2010/08/27
校長メッセージ
− 軸 −
静岡県教育委員会発行「Eジャーナルしずおか」平成22年1月26日号のコラム欄「ぷりずむ」に、イラスト作家・赤池キョウコさんの「力強いオーラを求め、生き様を見直す時代」なる一文が掲載されていました。
「味の抜けた優しい言葉で『モノわかりのいい大人』を演じている」現代の大人に苦言を呈し、今時の子どもは実は「力強さ」に飢えているのではないかと説を唱えています。
赤池がいう「皆、メンター(良き助言者、指導者)を潜在的に求めている」と、私も思います。特に、指導者をです。
指導者は導くという漢字を使います。誰をどこに導くのでしょうか。誰は明らかです。導かれたい御仁です。学ぶ人と換言できます。
問題なのは導く先です。どこへ?ここが難しいのです。だから先人が導いてくれた地平を学びます。
火曜の夜は週一回の習字の稽古日です。昨夜、先生とお話させていただきました。稽古日までに自学で1枚ずつの楷書、行書、細字を仕上げるのですが、「稽古の時に先生に指摘されるまで自分ではどこがポイントなのかわからない、先生に指摘されると、なるほど書いた文字が変化するのですが。」
先生は、「私もそうです。」とおっしゃいました。先生にも先生がいるというのです。平形先生(静岡大学教授)だといいます。そういえばいつも先生の口から「平形先生は…。」との発言が多くあります。書の世界は臨書に値する中国の文字、漢字が確定されています。日本のかなも平安時代に書かれた文字が定式となっています。誘いはその文字の形、心に近づくことです。そこを基本とします。桃栗三年、私も何とか三年は学び続けようと自分で決めています。
指導の力強さは、導く地平が見えていることが要です。しかし、日本における教科教育は歴史が浅いため、見える地平がまだ定まっていない可能性が高いと言えます。国語科も教科として成立したのは1900年です。今から百十年しか経っていないため、国語科の指導方法は百花繚乱の例えで話題になるくらい定式はありません。
その分、教師に学ぶ必要があるといえます。ものがわかること、それは子どもの世界ではなく、大人のしかも教える立場にある私たち教師にこそ求められる基本的な立ち位置です。学ぶ教師が求められます。そうすれば、よい意味で「強い指導」が可能になります。
赤池キョウコは、一方で上から目線の説教はダメだと現代の日本の人間像に合わせた教育を推奨します。上から目線での説教を戒め、真似るべき値打ちが大人側にあれば自ずと子どもは真似るからこそ人生に「軸」をもった生き方を示せと提言してくれています。軸のぶれは危険です。軸の回転力がないと倒れてしまいます。教師が学び続ける必然を諭してくれています。
(平成22年3月3日)