学校日記

“一隅”№31

公開日
2010/08/27
更新日
2010/08/27

校長メッセージ

− 挨拶 考 −
確かに数字として挨拶ができない西浦小学校児童の実態はあぶり出されています。
ここ2年間の学校評価として実施している保護者、児童アンケート結果や長井崎中学校3校連絡会の席上でもこのことは話題に上がりました。
しかしです。平成22年3月2日に実施した学校関係者評価委員会における「挨拶」に係わる西浦地域の皆さんの見識には感動すら覚えました。
当日の委員のみなさんの考えを要約すると次のようになりますか。
「仕方ないよ。知っている人には声をかけるが、知らない人にはね。そう、西浦の子は恥ずかしがり屋なんだよ。長井崎中に行くようになれば立派に挨拶できるようになるよ。今までの子もそうだったのだから、心配はなしだよ。」

挨拶の励行と徹底は教育界においては自明のことであるので、何とか学校の責任においても挨拶ができる子を育成したいと、誰もが切望します。
教育界の中で挨拶至上主義を標榜しない方として浜松市教育長の高木伸三氏をあげることができます。高木教育長は、今から一年半ほど前の静岡新聞夕刊「窓辺」欄(H19,10,18)に「顔見知り運動」の必要性を提唱する随筆を書かれました。挨拶は基本的に顔見知りの関係性の中で取り交わされる儀礼であると、認識することが重要です。高木は「子どもが小さいときから、親はそれぞれの地域の行事に子どもを参加させ、地域の大人とともに活動する場面を多くしていくことによって人間関係を広めさせていく」ことに価値を置き、顔見知りになることを勧めています。
先の西浦小学校関係者委員の考え方と一脈通じるところがあります。

大丈夫、3年間続けた全国学力学習状況調査でも西浦小の6年生は「近所の人に会ったときは、あいさつをしている」し、何より群を抜いて「西浦地域の行事に参加している」子どもたちなのです。地域の人たちとは旧知の仲、顔見知りなのです。

児童精神科医の古荘純一は著書『日本の子どもの自尊感情はなぜ低いのか』(光文社新書、2009)の冒頭に、学校での挨拶を引き合いに出して次のように述べています。
「今の子は小学校低学年でも、疲弊しています。表向きは元気いっぱいに見えるかもしれませんが、疲弊しています。とくに、学校の先生の中でも、若い先生はそれに気づくかもしれませんが、管理職の先生になるとそれがわからなくて、「子どもは元気いっぱいだから」などと思っていますし、そう口にもしています。たとえば朝、学校の校門の前で、登校してくるみんなに挨拶をすることが最近はさかんに行われていますが、疲れている子どもに元気いっぱい挨拶をされても…、と私などは思ってしまいます。正直言って、あれはやめてほしいとさえ思ってしまいます。」

私も週に3回、子どもたちに挨拶していますが…。

(平成22年3月8日)