学校日記

3/8(月) LOVE。。 49

公開日
2021/03/08
更新日
2021/03/08

校長室発

https://swa.numazu-szo.ed.jp/numazu411/blog_img/2085077?tm=20240127115407






16歳のとき



多くの選択があったはずなのに、

どうして自分は今ここにいるのか。

なぜAではなく、Bの道を歩いているのか、

わかりやすく説明しようとするほど、

人はしばし考え込んでしまうのかもしれない。

誰の人生にもさまざまな岐路があるように、

そのひとつひとつを遡ってゆくしか

答えようがないからだろう。



ぼくにとっての初めての旅は、

16歳の時のアメリカだった。

外国へ行くことが日常化した今と違い、

アメリカは太平洋の果ての遠い異国だった。

船で海を渡り、

ヒッチハイクをしながら放浪するように

アメリカを旅することができたなら・・・

それは中学生の頃から秘かに温めていた計画だった。

学校の授業時間、

教室の窓の外を見ながらそのことを考え始めると、

身体が熱くなってきた。

そこにはさまざまな冒険が待っているはずだった。

日常を包んでいるオブラートのような

皮膜を抜け出して、

世界というものに触れてみたかった。



心の中で一緒に行く友人も決めていた。

卒業式も迫ったある日、

その友人を校庭の隅に呼び出し、計画を打ち明けた。

ずっと考え続けてきたことだったので、

その日は記念すべき日になるはずだった。

が、予想もしなかったことが起きた。

それは面白い、絶対やろう

と言ってくれるはずだった友人は、

ポカンとした表情でまるで反応がない。

今にして思えばあたりまえの話だが、

その時の全身の力が抜けてゆくような

がっかりした思いははっきりと覚えている。

25年前の話である。



高校に入り、

アルバイトをしながら少しずつ貯金を始めた。

知り合いのつてをたどり、

外国へ向かう貨物船の船員を

横浜港にたずねたりもした。

皿洗いの仕事がないかと思ったのだ。

もう一人で行くことしか考えていなかった。

自分の計画を両親やまわりの人間に話しても、

誰も取り合ってくれはしなかった。

16歳の子どもがアメリカを一人旅するなど、

当時は反対する以前の暴挙だったのである。

しかし、子どもながらにぼくは真剣だった。

やがてたった一人だけ、

計画に耳を傾けてくれ始めた人がいた。

父だった。

本当に行きたいのなら、

資金をカンパしてくれるという。

サラリーマンの父にとって

それは少ない額ではなかった。

そして子どもの父親としても、

多くの人々から

批判を受ける中での賭けだったのだろう。

もしかすると

無事に帰っては来られないかもしれない。

外国はそれほど遠い時代だった。



1968年夏、

ぼくはアルゼンチナ丸という

ブラジルへ向かう古くからの移民船に乗って、

横浜港を出た。

初めての旅を船で海を越えたことは、

地球のスケールをぼくに実感させた。

太平洋の広さ、

青さは、圧倒的だった。

毎夜甲板に出て、降るような星を眺め、

うねるような太平洋の音に耳を傾けた。

何日も海だけを見ながら過ごしていると、

自分が暮らしていた陸地は

不安定な束の間の住み処のようで、

海こそが地球の実体のような気持ちにとらわれた。

海は限りない想像力と、

人間の一生の短さをそっと教えてくれた。



二週間を経て、

水平線にロサンゼルスの町が姿を現し、

船はアメリカに着いた。

ぼくの持ち物は、

米軍の放出品の肩にかける

大きなザックひとつだった。

中にはテント、

寝袋、コンロ、アメリカの地図・・・が

ぎっしりとつまっていた。



町から離れた場末の港には人影もまばらで、

夕暮れが迫っていた。

知り合いも、今夜泊まる場所もなく、

何ひとつ予定をたてなかったぼくは、

これから北へ行こうと南へ行こうと、

サイコロを振るように今決めればよかった。

今夜どこにも帰る必要がない、

そして誰もぼくの居場所を知らない・・・

それは子ども心にどれほど新鮮な体験だったろう。

不安などかけらもなく、

ぼくは叫びだしたいような

自由に胸がつまりそうだった。



ロサンゼルスでテントを張る場所もなく、

その晩は町外れの安宿に泊まることになった。

そこは得体の知れぬ人々が

住みついたアパートでもあり、

一晩中どこからか叫び声が聞こえる

騒然としたアメリカ第一夜となった。



しかし今思えば、

アメリカはケネディ、キング牧師の暗殺、

そしてベトナム戦争や黒人暴動で

揺れ動く混沌とした時代でもあったのだろう。

そんな社会的意識も、

犯罪への恐れもなかった無知な自分は

まさに意気揚々とアメリカの旅を

スタートさせていったのである。



ある日、

日没直前にたどり着いた

グランドキャニオンの壮大さは、

ぼくのもっていた自然のスケールをぬりかえた。

小さなテントで過ごした初めての大自然の夜は、

自分の心の中にひとつの種を落としていった。

それはゆっくりとふくらみながら、

どこかでアラスカへと

バトンタッチされていったように思う。



グレイハウンドのバスに乗って訪れた南部の町、

アトランタ、

ナッシュビル、

ニューオリンズ・・・は強烈だった。

バスを降りると

そこは黒人の人々の世界だった。

トイレ、靴磨き、ホットドック、ハンバーガー・・・

さまざまなものが入り混じった

グレイハウンド・バス停の匂いは、

今でもぼくにとって懐かしいアメリカの匂いである。



そしてアメリカの平原を走るバスの中から眺めた、

たくさんの夕陽、

夜明け。

毎日毎日さまざまな人々と言葉を交わし、

別れていった。

あたりまえのことなのに、

これだけたくさんの人々が

生きていることが不思議だった。



途中で方向を大きく変えてメキシコに入り、

古代文明の遺跡をまわりながら

ユカタン半島の先まで足をのばした。

ある晩、メリダという小さな町で道に迷い、

歩いても歩いても怪しげな路地から抜け出せず、

通りかかったパトカーに拾われ

やっと宿まで帰ったこともあった。

子ども心にも、初めて、

危ないなという緊張感に身をすくめていた。



カナダでヒッチハイクをしながら

拾ってもらったある家族とは、

十日間も一緒に旅し、

25年たった今も

家族のようなつながりが続いている。

昨年久しぶりに

夫婦が住むカナダのエドモントンを訪れ、

25年前の旅の話に花を咲かせた。

当時7歳だったビリンダは

カナダの個性的な女優となり、

12歳だったドナルドは

記録映画のカメラマンになっていた。

「あの日、

 国道でヒッチハイクをしていた

 ミチオの前を通り過ぎた後、

 ビリンダが、どうしても

 『もう一度戻って乗せてあげて』と

 言い張ったの」

と年老いた母親が懐かしそうに話してくれた。



多くの人々に出会い、

助けられながら、

ぼくは二ヶ月の旅を無事に終えることができた。

終着点としていたサンフランシスコに

たどり着いた日、

特大のハンバーガーとコカコーラーで、

ぼくは自分自身に乾杯をした。

心の筋肉というものがもしあるならば、

そんなものをふつふつと身体で感じていた。



今振り返ってみると、

16歳という年齢は若すぎたのかもしれない。

毎日毎日をただ精一杯、

五感を緊張させて生きていたのだから、

さまざまなものをしっかりと見て、

自分の中に吸収する余裕など

なかったのかもしれない。

しかしこれほど面白かった日々はない。

一人だったことは、

危険と背中合わせのスリルと、

たくさんの人々との出会いを与え続けてくれた。

その日その日決断が、

まるで台本のない物語を生きるように

新しい出来事を展開させた。

それは実に不思議なことでもあった。

バスを一台乗り遅れることで、

全く違う体験が待っているということ。

人生とは、

人の出会いとは

つきつめればそういうことなのだろうが、

旅はその姿をはっきりと見せてくれた。


が、

ぼくは現実の世界を生きていたわけではなかった。

旅を終えて帰国すると、

そこには

日本の高校生としての元の日常が待っていた。

しかし世界の広さを知ったことは、

自分を解放し、

気持ちをホッとさせた。

ぼくが暮らしているここだけが世界ではない。

さまざまな人々が、

それぞれの価値観をもち、

遠い異国で自分と同じ一生を生きている。

つまりその旅は、

自分が育ち、

今生きている世界を相対化して視る目を

初めて与えてくれたのだ。

それは大きなことだった。

なぜならば、

ぼくはアラスカに生きる多様な人間の風景に魅かれ、

今も同じような作業を

繰り返している気がするからである。



BY 「旅をする木」 星野道夫